千葉県・東京近郊で、電気工事・空調工事を中心にあらゆる設備工事を安心とともに提供する、フィデス株式会社

並木鷹男

並木鷹男(代表取締役会長)

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――会長は二代目ということですが、先代についてお聞かせください。

父が先代で創業者です。明治時代に農家の次男坊として生まれ、山武農学校に通っていたのですが、「これからは電気の時代だ!」と一念発起し、東京・神田にある電機学校(現・東京電機大学)に進学しました。

実家の支援もなく学費にもこと欠いたので、教授のお宅に書生として住まわせてもらい、蒲田から神田まで歩いて通った、と当時の苦労話をよく聞かされました。電機学校では剣道部に所属し、風紀委員も務める強面だったので、学内でも怖がられる存在だったようです。

卒業後は、東京電力の前身である東京電燈に入社し、日本橋支店に配属されました。今でこそ電気自動車は普通の時代になりましたが、当時「電気が売れる」とばかりに電気自動車を試作し、東京の街中を走り回っていたそうです。もちろん当時のバッテリーの性能からして実用になるような代物ではなかったようですが、とにかく何にでも挑戦してみようという進取の気性で、サラリーマンとしては“規格外”の男だったようです。

やがて日本は戦争に突入します。東京電燈では剣道部に所属し、体格も良く剣道五段の腕前でしたから、当然のように徴兵検査は甲種合格、即最前線送りになるはずでした。ところが東京電燈に軍から電気技術者派遣要請が来たのです。戦車の軸受けに人工ダイヤモンドを使いたい、その研究と製法を東京工業大学で研究せよ、との指令だったのです。高温高圧の環境を作り出すためには電気が必要で、その研究熱心さを買われて大岡山にある東京工業大学の研究室に軍属で派遣されました。結局、人工ダイヤモンドは完成できませんでしたが、一歩だか二歩だか手前のカーボランダムという黒い塊をよく見せられました。それでも博士号を取れる研究成果はあったようですが、博士号を取りたい友人に成果は譲ったそうです。もし博士号を取っていたらこの会社は存在しなかったんでしょうね。
終戦後、GHQによる財閥解体令によって関東配電(東京電燈)は解体され、東京電力に吸収されました。東京工業大学の研究室から元の会社に戻ろうとしましたが、戦後の混乱、会社の解体等により社籍を失ってしまいました。東京の焼け野原を見渡すととても復興できる光景ではなく、親類を頼って田舎に戻ってきたんです。
現相談役で叔父にあたる並木豊治も、今年96歳を迎えましたが、日立製作所勤務時代に徴兵され、技術を買われて国内部隊で通信兵をやっていたんです。その叔父も無事に帰還したので、電気に関しての技術、情報、人脈を活かして電気工事業を始めました。今現在、自宅が建っている場所、大網白里市木崎が「九十九里電化工業所」の創業の地です。創業者の凄さは、昭和20年8月に終戦し、焼け野原の中で「戦後復興時代」を先見し、昭和21年1月にはもう事業を興したということです。私は創業の年、昭和21年2月の生まれですから、会社と同い年なんです。5人兄弟の末っ子が後継したのですから、何かの因縁があったのでしょうか?
終戦直後ですから新築は叶わず、親戚から貰った家を500m以上も曳家して住んでいたようです。5歳位の頃だったでしょうか、家の前には遠目にタイルに見える水色のトタン板で囲った小屋があり、そこが本社事務所でした。

まず手掛けたのは、無灯火地区の電力供給でした。未だ電気が供給されていない地区が多数あり、無灯火村落とも呼ばれ、国策で優先的に電力供給が進められたのです。元東京電力の人脈を活かし、東京電力、東金営業所第一号の認定工事店として、無灯火地区の電力供給に尽力しました。当時はどこの家庭も貧しく、工事代金は農作物という家庭が多かったようです。食べきれないほどの野菜やお米が集まったそうですが、お金にはならず、随分苦労したと話していました。

それでも今までのロウソクやランプの灯りから、40W裸電球が点灯した瞬間、家族一同の歓声に包まれながら濁酒を浴びるほどに飲まされた感動と興奮が忘れられない、とも話していました。仕事を通じて、人に社会に奉仕する醍醐味を味わった瞬間だったのでしょう。その創業の精神を忘れてはならないと思います。

次に手掛けたのが、製塩電化、農漁村電化など、持ち前の工夫心を活かした、今で言う電気を売る、工事を売る“提案営業”でした。
当時、九十九里沿岸一帯はイワシが大量に水揚げされ、煮干の生産が盛んだったのです。また、塩水はいくらでもあります。そこで塩水やイワシを電気釜で煮るのです。薪だと火力のコントロールが難しいんですが、電気だと簡単に調整できる。こりゃいいや、こりゃ便利だと九十九里一帯で少なからず流行ったようです。

九十九里一帯は昔から天然ガスが自噴し、ドラム缶を被せてパイプで送り、自宅のお風呂を炊いたりしていました。エネルギー不足の時代ですから、大手企業がガス採掘を事業化しようと何社も参入してきました。昭和26年には城南電設企業に改組し、町の電気屋さんから電気工事会社に脱皮していったのです。こんな時代の上げ潮に上手く乗り、地元の強みを活かして井戸元の用地交渉や、電力供給の折衝、経済産業省への申請など、強みを活かして業容を拡大していきました。

あっという間に社員が何十人にも増え、いつの間にかトラックも数台並び、毎日、毎日、何十本も電柱を立てる作業が続き、会社は活況を呈していました。自宅にはうちの社員だけではなく、お客さんの会社の社員も入り浸って一緒に食事を摂り、お酒を飲み、まるで大家族のようでした。私も随分かわいがってもらったものです。

当時の脆弱な電気設備は、台風が来ると必ずと言っていいほど停電し、深夜に呼び出され、大雨の中を自転車で出かけていくなんてこともしょっちゅうでした。
ところが台風一過の翌朝、泥だらけで皆が帰って来ると、自宅の庭で炊きだしが始まり、握り飯を頬張りながら茶碗酒で盛り上がり、強風豪雨の中での作業がいかに大変だったかを得意げに語り合っているんです。大変だったことを、なんでそんなに楽しげに話せるんだろう、と不思議に思っていました。私が子供の頃の原体験が、現在のフィデスの経営理念や価値観に繋がっていると思います。「お客様第一主義」「24時間365日緊急対応」なんて言葉、当時はありませんでしたし、創業者は特段、経営の勉強をしたわけでもないのに、自然と身に付いていたんですね。

とにかく、いろんなことを工夫するのが大好きな父でしたから、家の風呂も電気で沸かしていました。恐ろしいことに、材木にニクロム線を巻きつけて五右衛門風呂に突っ込むんです。水は100度以上にはならない、と言って威張っていましたが、よく事故にならなかったな、と。湯船に蓋をして隠れていたら、追い焚きのために通電されそうになって、飛び上がったこともあります(笑)。

家電品三種の神器なんて言葉もありましたが、そのうちの一つの洗濯機も、とても高くて買えなかったので、自作していました。木で箱を作って、下にプロペラを付けた簡単なものです。すごい音を立てて動いていました。ただ、一方向にしか回転しないので洗濯物がよじれて大変なことになっていました。

太陽熱の温水器もどこにも製品がない頃、既に自作していました。屋根にゴムホースを敷き詰め、朝、水を入れると夕方には相当の温水になり、風呂に使っていました。ただ、藻がホース内に大量に発生し、湯船に浮いていて気持ちが悪かったですが。(笑)

――会長は三男坊と聞きましたが、どうしてこの会社を継ぐことになったんですか?

私は5人兄弟の末っ子でした。大学進学の時、父に電子工学に進めと言われたのですが、コンピューターなんて良く分からない分野だったし、電気は目に見えないじゃないですか。余り好きではありませんでした。けれど「これからは強電から弱電の時代になる」、父は弱電分野がこれからの時代にマッチすると子供に勧めるわけです。先見力は確かにあったのですが、時代も時代ですから、勧めるってことは暗黙の強制です(笑)。本当は工業デザインをやりたかったんですが…。

結局は、東京電機大学の電子工学科を無事に卒業、日本は高度成長経済、就職は売り手市場でしたから好きな会社に入れました。アメリカの大手コンピュータ会社バロースに入社しました。現在の日本ユニシスですね。入社当時は住友銀行の大型汎用機のメンテナンスでした。トラブルはマニュアルによってカードの交換で済みます。その通りに作業する、それでも治らなければまた別のカードに交換する、実際のところ、何故なのかは良く分かっていませんでした(笑)。

その後、技術本部に配属になり、JALの航空券や伝票のOCR読み取り印字システム等を開発していました。最近でこそバーコードになりましたが、航空券のバウチャーは当時開発したそのものを最近まで使っていましたね。6枚複写の伝票をOCRで読み取れるようにするんですが、まあ大変でした。手形帳や小切手帳に印字するのも大変でしたね。ゴムのベロで一枚ずつ捲くりながら印字するんですが、これがなかなかうまく捲れない、仕方なくバラで印刷して100枚束ねて綴じる機械を開発したり、と、色々なことを考えたものです。

その頃、後継者の長男が脳腫瘍を患い、私も大阪支社に転勤辞令が出た時のことでしたが、突然上京した父に「長男は仕事に復帰できる状態ではない、お前に跡を継いで欲しい」と頭を下げられ、迷った挙句、跡を継ぐことに決めたのです。当時、大学時代の親友、徳久君(後に常務として大活躍してくれた)が既に先輩としてわが社に入社していましたので、これからは楽しく仕事もできる、とも思いましたね。
当時は高度成長経済まっただ中、世間も好況に沸いていました。私は現状に満足できないタイプでしたから、もっと大きな工事を受注したい、と、公共工事やゼネコンからの大型案件を徳久君と受注するのですが、どうやって施行するのか分かりません。若かったとはいえ無茶な話です。結局、下請けさんに教えて貰いながら、必死に完成させました。若気の至り、まだ24歳の頃です。専門知識もないまま見よう見まねで現場管理していたんです。もう取り壊されましたが、初めての完成させた現場は、入社して一ヵ月後に一宮町の国民宿舎の現場管理を任されたんです。今考えると恐ろしいことで、1億円規模の現場を新入社員に任せたようなものだったのです。

――会長の趣味はオートバイとお伺いしました。

はい、父はオートバイが大好きだったんです。千葉県でオートバイに乗り始めた“走り”だったと聞いています。物心付いた時からオートバイはいつも傍らにありました。もう時効だから良いでしょうね、小学校5年生の時にはもう立派なオートバイ乗りでした(笑)。
父も母も咎めませんでしたね。学校に乗っていくと先生達が、貸せ、貸せと争って校庭を走り回っていました。良い時代でした。
当時、運転許可証という原付の免許があり、14歳で取得できたのです。父も無免許運転を繰り返すバカ息子に困惑したのか、14歳でホンダスーパーカブを新車で買ってくれたんです。大卒初任給が1万3千円だった頃ですから、6万2千円のカブは今に置き換えると120万円です。よほどうるさかったのか、可愛かったのか? ご想像に任せます。
以来、58年間、バイクに乗り続けています。そう、今ではオートバイと言うよりバイクが一般的な呼び方になっています。一昨年には、ドイツ、フランス、リヒテンシュタイン、スイスアルプス、とバイクで10日間、1600kmほど走り回ってきました。ヨーロッパは道路も素晴らしく、又、交通マナーが日本とは比べ物にならないほど良く、一般道路でも制限速度が100km/hとストレスフリーで思い切り走れる、最高のツーリングでした。とても楽しかった! これも留守を守ってくれた社員の皆さんのお陰です。これからも生きている限りバイクには乗り続けようかと…

 

 

 

 

 

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